ゆらぎと関係の真理

3.

 「私」という自我の感覚は我々一人一人の意識の中に確固として存在している。それだけがこの不確かな世界において唯一信じるに値する根拠となる。
 では、生きることの最も確かな意味とは? それは、この意識の中にある「私」の充足を最大化すること。つまり、「私」を幸福にすること。
 「私」の充足には様々ある。ありうる限りの欲望に応えそれを満たすこと。世のため人のために献身を尽くすこと。神のような人智を超えた上位存在に仕えその一生を捧げること。
 いずれにせよ、今の時代を生きる大半の人々は、「私」という唯一信じることが出来る確かな意識の感覚を根城に、常にその充足の最大化を図りながら人生の選択と行為を繰り返していると言える。

 その結果が、今である。

 富の集約は止まらず、弱者や資源からの簒奪は常態化、資本と技術への過度な依存を強いられ、環境負荷への実質的な考慮は恒久的に先送り、その管理主体には何ら正統性の根拠すらなく、あるのはご都合主義的な責任逃れのみ、承服出来ぬ者に待つのは圧倒的な暴力と抑圧だけ。
 それらは全て、「私」を幸福にするための至極真っ当な行動規範の帰結である。

 重要なのは、この「私」という自我の感覚が狭量なこと。幸福の尺度が貧しいこと。
 「ゆらぎ」と「関係」という真理の光明にこの世界が照らし出されるとき、閉ざされていた自我の感覚はこの世界の実相により忠実かつ則した認識へと開かれてゆく。

 この世界のあらゆる事物は全て残らず常に「ゆらぎ」の中にあり、止まっているものなど何一つとしてない。そうであるのなら、「私」というこの感覚とその「私」の充足を満たすために貪られる慾求の対象物は皆等しく全て幻影か? そうではない。それらは全て確かに在る。しかし、その一瞬間後には別の何かに変転してしまうのだ。そうであるにもかかわらず、「私」という固有の一貫性を持った自我の認識を抱いてしまうのは、己の恣意性において他ならない。己の恣意性の呪縛という牢獄においてのみ、自我とその充足という不毛な幸福の尺度が取り沙汰されるのだ。
 この世の全ての事物は常に「ゆらぎ」の中にあり、また、万物は森羅万象何一つ余すことなく全てが「関係」の中にある。そうであるがゆえに、「私」という固有の自我の感覚もその充足のために慾求される対象も、“それ”であって“それではない”、“それ”であると同時に“別の何か”なのだ。「私」が「私」であると認識しているものは「私以上の何か」を含んでいるし、また「私ではない」と認識しているものが「私である」ことが大いにある。全ての事物は他のあらゆる事物の「関係」の中に存立しうるものなのだ。そんな世界において「私」とその充足という単一な幸福の尺度でもって物事を図ることは出来ない。
 全ては「ゆらぎ」と「関係」その真理の光明によって照らし出されたこの世界の実相と真摯に向き合うことから始まるのだ。

 豊かになりたい、安心したい、便利にしたい、快適であってほしい、そういった素朴で真っ当な願望の裏には、不利な者からの搾取、資源の簒奪、制御不能な技術と資本への依存、環境破壊、暴力、抑圧、不正、無責任…帰結としての欠陥が随所に表出し、我々はもはやそれを見過ごすことは許されない。
 問題の根幹には我々の認識が大きく関わっている。「ゆらぎ」と「関係」その真理に目覚め、自我に対する適切な認識を悟り、己が生命とそれを取り巻くこの世界との本来的な共生関係に心から感服すること。
 それが、この世界を救う唯一の手がかりとなるのだ。