ゆらぎと関係の真理

1.

 今の社会を生きる人々の多くは世界をこう捉えている。物事の間には明確な境界線がありそれぞれは独立した存在である、と。
 それゆえに、「あなた」と「私」や「アメリカ人」と「中国人」や「円」と「ユーロ」など、それぞれの違いを前提とした価値観が当たり前のこととされる。
 上記のような価値観を生きる人々はある決定的な問題を抱える。
 それは「喪失」の問題である。
 人は必ず死ぬ、富もいつかは失われる、国家も決して永遠ではない。
 私たちはそのことを知っている。
 知っているのにも関わらず、人々はそれらが失われることに対してどうしようもない「喪失感」を感じてしまう。
 なぜだろう?
 人々はなぜ失われゆくものに対し、嘆き悲しみ苦しみを感じるのだろう。
 世界にはなぜ、死や崩壊など人間の手には負えないような理不尽で不条理な出来事があるのだろう。
 それは、世界がゆらぎと関係の真理で出来ているから。そのことを人々が正しく智慧しないから。

 ゆらぎと関係の真理を智慧する者は世界をこう捉える。
 物事の間に明確な境界線など無く、全てはゆらいでいる。独立したものなど何一つ無く、全ては関係性の中にある。
 物と物の間に明確な境界線がなく常にゆらいでいるとしたら、「あなた」と「私」の間にも「私」と「アリ」の間にも「アリ」と「月」の間にも、その違いを区別する固定化された線引きがあるのではなく、その境界線は常に変化していることになる。
 また、孤立しているものなど何一つ存在せず全てが関係しているとしたら、宇宙の始まりから宇宙の終わりに至るまでどんなに小さなことであっても、全ては何かの原因でもあり、また、全ては何かの結果でもある。
 ゆらぎと関係の真理を智慧する者から見た世界は、全ての瞬間の全ての物事が絶え間ない変化の原因と結果なのである。

 物事は常にゆらいでいて絶え間ない変化の中にあるのだから、永遠に存在するものが無いのは当然のこと。にも関わらず今の人々は、生きることや富むこと、あるいは自分の身分などに固執して、それが永続することを願ってやまない。だからこそ、それらが失われた時にどうしようもない喪失感に襲われる。
 しかし、ゆらぎと関係の真理を智慧する者は違う。物事が常にゆらいでいて全てが関係していることを知っている。彼らは一瞬一瞬の中にそのかけがえのなさを感得することが出来る。
 大切な人を失ったとする。私たちは当然そのことを「悼む」であろう。しかし、ゆらぎと関係の真理を智慧する者とそうでない者とでは「悼む」の意味が違う。
 ゆらぎと関係の真理を智慧しない者は、失ったことへの喪失感によって嘆き悲しみ苦しみに苛まれるであろう。喪失感こそが悼みであると。
 しかし、それは本質ではない。
 ゆらぎと関係の真理を智慧する者は大切な人を失ったとき、故人と過ごした時間の一瞬一瞬を慈しむ。そしてその追憶の時間をもかけがえのない大切な一瞬として刻み込む。それこそが本当の悼みであると。
 それは人の死に限ったことでない。大切にしていたモノが失われたとき、大事に思っていたコトが損なわれたとき、人々の多くは理不尽を感じ不条理を嘆く。
 しかし、ゆらぎと関係の真理を智慧する者は違う。物事の境界線は常にゆらぎ、全てが関係性の中にあることを知っている。自分の所有物だと思っていた物が失われたとしても、自分に不可欠だと思っていた事が損なわれたとしても、それがゆらぎと関係の摂理に適うのなら何も嘆かわしいことはない。
 「私の物」も「私の国」も「私自身」さえも常に変化を続けており、全てがその瞬間瞬間の状態でしかない。そしてその全ての瞬間が、みな同じようにかけがえのない一瞬一瞬として感得される。失う前も失った後も、損なう前も損なった後も、それらは理不尽や不条理でもなんでもなく、みな同等にゆらぎと関係のなかの摂理として刻み込まれる。それこそが真理なのだから。

 近代化、資本主義、グローバリゼーション、我々が生きる社会はますます複雑かつ不透明になり、透き通るような真実からは程遠くあるように見える。しかし、人々が「ゆらぎ」と「関係」その真理に目覚め、獲得した叡智を一つに結集させることが出来れば、我々は我々の未来をより確実なものとして歩むことができるようになるであろう。