ゆらぎと関係の真理

2.

 間違った認識をもとにして作り上げられてきたこの社会に、我々はいつまで汲みし続けるのだろう。
 現代社会を生きる大半の人々はある一定の価値基準に囚われながら生きている。それは大きく二つに分けてしまえば「自我」と「神」ということになる。
 我々は「私」という存在を信じて疑わない。この世に物質的な肉体を持って生まれその内に確たる意思を宿しながら自らが形成されていると、いつの間にか確信している。「私」という前提があればこそ、この世界を認めることができる。「私」という認識こそがこの世界を対象化し、干渉可能なものとしての現実(リアル)を提供する。
 また、「私」の対極には「神」がいる。「神」とは、「私」の行動を規定する上位の存在である。また、この世界の存在を詳らかにするための決定的な論拠、根本的な原理である。近代科学はこの世界が「如何にして在るのか」という問いには解をもたらす。しかし「何故在るのか」という問いには一切の解を与えない。人類はその背景に「神」の存在を想定することで、ようやくこの世界の恒常性というものに確証を得ることができる。それは、もはや「神」の存在に確信を持てなくなってしまった近代以降の人々においても違わない。
 現代を生きる人々は「私」という「自我」を前提にしてこの社会と相対する。そして、その社会の素子を失われた「神」の幻影に追い求める。

冷笑主義 - 信ずるものなど何一つない世界を前にしたひたすらな冷笑。
快楽主義 - 残されたのは永久に満たされることのない果てなき欲望。
熱狂主義 - ならば戯言ですらもその理は許され虚妄であれど崇め奉られる狂信。
科学主義 - 観測と検証の集積。含意は無い。
 相対化された「神」を現前に生きる「私」達は、いずれかのイズムに囚われている。まるで病のように。それらはみな、玉座を引き摺り落とされた神の空席を埋め合わせるための代替物でしかない。
 今一度問う。
 間違った認識をもとにして作り上げられてきたこの社会に、我々はいつまで汲みし続けるのか。
 「私」という「自我」に固着し、失われた「神」の幻影に囚われ、その認識の下にこの世界を生きる人々。彼らによって形成されたのが今の「社会」であり、盲従された前提がこの社会の再帰的な補完を繰り返す。
 しかし、もし彼らの認識そのものが誤りだとしたら。不問に付されたその前提が根本から覆るのだとしたら。人類は社会を見つめ直さざるを得なくなる。そして、既にその時は来ているのだ。

 「ゆらぎ」と「関係」の真理に照らし合わせたとき、この世界には確固たる「自我」も永劫不変の「神」も存在しない。想定する必要もない。
 この世界を構成するあまねく事物は物質のその最小単位に至るまで常に「ゆらぎ」のなかに在る。また物質そのものはたったの一つたりとも独立して存在し得ない。全ての事物はそれ以外のあらゆる事物の「関係」の中に位置し存立する。
 事物を分つ固定化された境界線など無く、全ての物事が絶え間ない変化の途上であるのなら、「私」もまた一過性の現象でしかない。単独で存立するものなど何一つ存在せず、全ての物事が因果因縁の中で結ばれているのであれば、この世界を外部から統べる絶対的な上位存在というものは想定し得ない。
 この世界には「神」も「私」も存在しない。あるのは「ゆらぎ」と「関係」、その摂理のみ。それがこの世界に感得される唯一にして絶対の真理である。

 「私」という確かな実感も虚妄でしかなく、ましてや一切の理たる「神」すらも顕現する隙がない、そんな世界に、底が抜けたような寂寥感を抱く人もいるかもしれない。それはしかし、動いているのは天体の方ではなく足元にあるこの地上の方だった、そう開眼した際に覚えるあの目が眩むような諦観と相似のものである。我々人類は、たといどんなに受け入れ難い突飛な発起であったとしても、それが万遍の摂理に適う想到であると看取したのであらば、他の幾千幾万もの蒙昧を退らせて、この世界の実相というものに忠実たろうと腐心してきた。
 今一度、その転換点に立たされているのだ。

冷笑主義 - 主客の区別がないこの世界において、かりそめの自我を根城に、まやかしの外部に居直って、したり顔の冷笑を繰り広げるその様は、ただひたすらに滑稽を極める。
快楽主義 - 自己充足への還元が念頭におかれた快楽の追求は、束の間の繁栄をもたらしこそすれ、肥大化したエゴを満たすためのその見え透いた欲望が、彼此の境界がないこの世界において、不毛を通り越し無様ですらある。
熱狂主義 - 変転を常態とするこの世界で、偏狭な尺度を用いた急場凌ぎの絶対性を信奉することの愚かしさたるや、もはや説明するまでもない。
科学主義 - ゆらぎと関係は決して科学とは相反しない。観測と検証の集積がいずれそれを証明する。しかし、恒久的な留保を前提とする現代の科学はその性質ゆえに、我々の行く末を占う布石こそ示すが、最後の審判に対しては冷厳たる沈黙が貫かれる。
 我々は我々の内奥から体得される真理に対し忠実であらねばならない。呪縛の如く囚われている既成の観念から脱却し、純一無雑な眼でこの世界の剥き出しの実相にその身を晒せば、そこには畢竟、「ゆらぎ」と「関係」その真理が首をもたげて現出する。我々はただ、真理に対しより忠実で従順たればよい。
 一人ではない、留まる術もない。